日本の原子物理学の礎を築いた
岡山県里庄町生まれの現代物理学者
仁科芳雄博士は「日本の原子物理学の父」と呼ばれる岡山県里庄町の偉人です。
仁科博士は、1890年(明治23年)12月6日岡山県浅口郡新庄村浜中(現・里庄町浜中)に生まれました。新庄尋常小学校(現・里庄西小学校)、生石(おんじ)高等小学校へは自宅から通いました。岡山中学校(現・岡山朝日高校)、第六高等学校(現・岡山大学)は岡山市の寮に入り、いずれも首席で卒業しました。東京帝国大学では工科大学電気工学科を選び、工科大学首席で卒業しました。理化学研究所に入り、研究生となると同時に東京帝国大学大学院に進学し、物理学の研究を始めました。
▲ 執務をする仁科芳雄博士
1921年(大正10年)から7カ年、ヨーロッパに留学し、イギリスのケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所、ドイツのゲッチンゲン大学、デンマークのコペンハーゲン大学で研究を行いました。特に、デンマークではノーベル賞受賞者で量子論の創始者、ニールス・ボーア博士に師事して5年間指導を受けました。ここでは研究者同士が年齢や地位や国籍によらず自由に討論する「コペンハーゲン精神」で研究が進められていました。
この時代、全ての物質が原子からできていることはすでに知られていたのですが、なぜ原子が安定しているのかがまだ分かっていませんでした。この謎を解いたのが量子力学という物理学で、1925年にヨーロッパで完成しました。仁科博士は量子力学の誕生に立ち会ったただ一人の日本人です。量子力学は現代物理学の基礎であり、スマートフォンやLEDも量子力学がなければ生まれていません。デンマーク滞在最後の年である1928年には、現代でもエックス線天文学などで用いられる「クライン・仁科の公式」を導出しました。
▲ ヨーロッパ留学中 友人らと
▲ 大サイクロトロン 〈1944年〉
▲ 文化勲章の複製
1928年(昭和3年)末に帰国後、まず量子力学を広めるためにハイゼンベルグとディラックを招聘しました。自身も京都大学で特別講義を行い、いずれもノーベル賞受賞者となる湯川秀樹博士、朝永振一郎博士らが受講しました。
1931年(昭和6年)から理化学研究所主任研究員として仁科研究室を主宰し、日本における新しい物理学研究の一大拠点を創りました。理論研究・宇宙線の研究・サイクロトロンの建設・放射線の生物や医学への応用など幅広く研究を展開し、多くの研究者を育てました。仁科研究室は「コペンハーゲン精神」で運営され、朝永振一郎博士は「科学者の自由な楽園」と回想しています。
1937年(昭和12年)春には恩師のニールス・ボーア博士を日本に招聘し、全国各地での講演の通訳を務めました。同年、日本初の加速器(原子物理学の実験装置)サイクロトロンを完成させ、さらに1943年(昭和18年)には当時世界最大クラスの大サイクロトロンを建設しました。1945年(昭和20年)8月に広島に原子爆弾が投下されるや大本営の要請を受けて調査におもむき、原子爆弾と断定して、大戦終結の糸口をつくりました。
終戦直後の1945年秋に、米軍によりサイクロトロンが破壊されてしまいました。アメリカの科学者たちはこの暴挙に猛抗議し、米軍は誤りを認めました。翌年、仁科博士は戦後初の文化勲章を受章し、理化学研究所第4代所長に就任しました。GHQの命令で理化学研究所は解体されますが、仁科博士の努力により「(株)科学研究所」として存続することができました。仁科博士は初代社長に就任し、ペニシリンの製造により経営基盤を改善しました。日本学術会議初代副会長に選出され、さらにアイソトープの輸入にも尽力しました。また、岡山総合大学設立期成会東京支部長として、岡山大学の設立、特に理学部の創設に多大な役割を果たしました。1951年(昭和26年)1月10日、肝臓がんのため60才で逝去されました。
仁科博士の言葉「環境は人を創り 人は環境を創る」には仁科博士の研究人生が凝縮されています。