リニューアル記念
コラム

〜生家から見えた海〜

時は明治20年―。
幼少期をここ里庄で過ごされた仁科芳雄博士は
どのような少年時代を送られたのでしょうか

 仁科芳雄博士は1890年(明治23年)12月6日岡山県浅口郡新庄村浜中(現・里庄町浜中)に生まれ、明治38年に生石(おんじ)高等小学校を卒業されるまで、里庄町浜中の生家で過ごされました。
仁科芳雄博士が生家で過ごされた当時は、窓からどのような景色が見えたのでしょうか。古地図を頼りに当時の里庄に遡ってみましょう。

 こちらの地図は、明治32年12月25日発行の陸地測量部による地図「正式二万分一地形図集成 中国・四国1」(柏書房)です。 この地図から博士の幼少期、明治20年から30年頃の里庄を中心とする浅口笠岡エリアの当時の様子がうかがえます。

 明治以降、現在に至るまでに笠岡湾は2度、大規模な干拓が行われています。
国営事業として昭和22年から開始された市街地西方、現在番町エリアと呼ばれている市街地区周辺の干拓と、同じく国営事業として昭和41年より開始された本土から神島に渡る干拓工事です。
 事業が開始される以前、仁科芳雄博士が幼少を過ごされた明治20年から30年当時は、現在の番町エリアは海でした。笠岡湾から生家を結ぶ平地には建物はなく一面に広がる田んぼ、そして博士の勉強部屋がある2階の窓からは、なんと笠岡の海が見えていました。

仁科芳雄博士の日記から読み解く
明治時代の里庄〜笠岡散策

 こちらの書物は仁科芳雄博士が小学生の頃に書かれた日記です。前半は『遠足の記』とあり新庄尋常高等小学校から海を渡り、遠路神島まで遠足に出かけた仁科博士の当日の様子が記されています。
後半は『田植え手伝を頼む文』とあり、小学校時代に先生やご学友に宛てたのでしょうか、田植えの手伝いをお願いする候文となっており、仁科博士の人柄が見て取れるとても貴重な記録文となっています。
 さて、こちらの仁科芳雄博士の遠足日記を手がかりに、当時の里庄、そして海に接した笠岡の風景を散策してみましょう。

六月五日

遠足の記 五月二十八日先生につれられて新庄尋高等小学校を出発し、県道を西に行き一丁目より今立川を下り、小田郡横島にある神島内村尋常小学分教場に行き、それより道通宮の境内にてしばらく遊び、ここより瀬戸渡に行き舟に乗りて渡り、神島内村尋常小学校に行き色々優待せられて喫飯し、本校の先生に礼をのべて午後一時頃軍歌を勇ましく歌いて出発せり。
それより七面山に上りて、笠岡町かた島(片島)大どんす小どんす等の島々を先生はたたえられたり。これらの島の間には舟の通ずるありて風光甚だよろし。 ここを午後三時頃下り天神宮に行き、かにかい(カニや貝)等をひろいて遊び、午後六時頃に至り瀬戸を渡り、また元の道を通りて各々の家に帰りたり。

六月二十二日

田植手伝を頼む文 拝啓 この頃田植え致すはずに候えども愚父病気にて困りおり候(そうろう)間、甚だ申し上げかね候えども、二三日間、田植えのお手伝い存じ下されるまじくや伺い上げ候。
もしお手伝い存じ下され候わば、明朝早々おこし下されたく、くれぐれお頼み申し上げ候。

注:旧字体と送り仮名を一部改め、
句読点を追加しました。

仁科芳雄博士の遠足記〜当日の道のり〜

1五月二十八日先生につれられて新庄尋高等小学校を出発し、県道を西に行き一丁目より今立川を下り、

仁科博士ははじめに新庄尋常高等小学校を出発します。新庄尋常高等小学校は現在の里庄西小学校です。彼らは今立川に沿いながら横島にある神島内村の分教場に向かいます。

2小田郡横島にある神島内村尋常小学分教場に行き、それより道通宮の境内にてしばらく遊び、

神島内村尋常小学分教場は現在の笠岡市立横江幼稚園のある場所です。また彼らは隣接する道通神社の境内で遊んだあと、神島に渡るため”瀬戸渡”に向かいます。

3瀬戸渡に行き舟に乗りて渡り、神島内村尋常小学校に行き色々優待せられて喫飯し、

当時、本土と神島の間を渡る舟は“瀬戸渡”と呼ばれ、今の神島大橋の南側に舟着き場があったようです。現在でもコンクリート製の「スベリ」だけが残っています。 神島に渡った彼らは神島内村尋常小学校で歓迎を受け、ここで食事をとります。

4七面山に上りて、笠岡町かた島(片島)大どんす小どんす等の島々を先生はたたえられたり。これらの島の間には舟の通ずるありて風光甚だよろし。

七面山の高台からは片島、そして隣接する大殿州や小殿州、今では神島本土と繋がった孫殿洲も海に浮かぶ小島としてはっきりと見えたことでしょう。
また島の間を舟が行き交う様が景色と合わさり、大変に美しい眺めだったと記されています。彼らはここから天神宮(神島天神社)に向かいます。

5ここを午後三時頃下り天神宮に行き、かにかい(カニや貝)等をひろいて遊び、午後六時頃に至り瀬戸を渡り、また元の道を通りて各々の家に帰りたり。

天神宮に到着した彼らは、付近の海岸でカニや貝を拾うなどしてしばらく遊んだのち、午後の六時頃に再び瀬戸を渡ります。
そして再び本土に到着した彼らは、元の道を辿りそれぞれの家路へと帰りました。

午前から小学校を出発し、各々の家に帰りついたのは日没後ではないかと想像できます。
距離にして往復15キロメートル近くある距離を小学生が自らの足で歩いたことになります。
当時は、文字通り「遠足」だった事がうかがえます。

当時は“当たり前”だったことを大切に記録し、
後世に伝えていきます

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。このコラムを読まれた皆さんは、「何を当たり前のことを今さら詳しく説明しているのだろう。」と思われたかもしれません。あるいは「知らなかった。あの辺が戦後まで海だったとはまだ信じられない。」と感じたでしょうか。
私自身は、生家から海が見えたという話は仁科会館に着任した当初に聞いていたものの、ぼんやりした知識にとどまっていました。
一昨年の年末に一念発起して里庄や笠岡の干拓の歴史を詳しく調べ、いつまでどこが海だったのか、そして仁科博士はどのような景色を見ていたのかがはっきりと理解できました。日ごろから良く行っている笠岡の番町エリアがまさか昭和30年ごろまで海だったとはと驚いたものです。

 分かりやすく伝えるにはどうすれば良いかと調査を進めた結果、明治32年の地図を見つけることができました。さっそく新しい展示パネルを作り、生家から海が見えたことや番町エリアが昭和30年過ぎまで海だったことを色々な人に説明してみると、反応は冒頭に書いたとおり真っ二つに割れました。70代以上の人たちにとっては当たり前、60代以下の人たちはびっくりという反応です。
このような「当たり前」の話こそ埋もれてしまうのだなと実感しました。おそらく、仁科会館が建った平成元年の頃にはあまりにも普通の話なので、改めて展示パネルを作って説明する必要性を感じなかったのでしょう。

 この話を仁科会館や生家での展示にとどまらず、別の媒体でより広く発信したいと考えていた時に、ちょうどホームページをリニューアルすることになりました。この機会に生家から海が見えた話を載せたいと担当の方に相談すると、大変熱心に受け止めていただきました。
また、この際せっかくだから仁科博士が小学生の時に書いた「遠足の記」も載せると面白いと提案したところ、私が当初構想していたよりもはるかに充実したコラムに仕上げてくれました。

 このコラムを制作するにあたり、多くの方にお世話になりました。特に、笠岡の干拓の歴史や「遠足の記」に登場する地名について詳しくご教示いただいた笠岡市教育委員会の安東康宏様、「遠足の記」と「田植手伝を頼む文」を書き起こしていただいた里庄町教育委員会の小椋美紀様に深く感謝いたします。

 仁科会館には、今回取り上げた話題以外にも仁科博士の人柄や業績を知ることができる数多くの展示があります。皆様のご来館を心からお待ちしています。

令和4年3月25日
公益財団法人 科学振興仁科財団 (仁科会館)
理事・事務局長 田主 裕一朗

時系列地形図閲覧サイト
「今昔マップ on the web」

当時と現在とを比較したより詳しいマップは こちら からご参照ください。
*この比較地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成されたものです。

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