仁科芳雄博士 略歴

仁科芳雄博士 生家

まんが「吉備の礎(いしずえ)仁科芳雄編」
  山陽新聞井笠版平成22年12月5日から
  平成23年2月13日にかけて連載されました。

理化学研究所(リンク)

仁科記念財団(リンク)


 仁科芳雄博士は「日本の原子物理学の父」と呼ばれる岡山県里庄町の偉人です。

 仁科博士は、1890年(明治23年)12月6日岡山県浅口郡新庄村浜中(現・里庄町)に生まれました。新庄尋常小学校(現・里庄西小学校)、生石高等小学校、岡山中学校(現・岡山朝日高校)、第六高等学校(現・岡山大学)、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、理化学研究所に入り研究生となると同時に東京帝国大学大学院に進学し、物理学の研究を始めました。

 1921年(大正10年)から7カ年、ヨーロッパに留学し、イギリスのケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所、ドイツのゲッチンゲン大学、デンマークのコペンハーゲン大学で研究を行いました。特に、デンマークではノーベル賞受賞者で量子論の創始者、ニールス・ボーア博士に師事して5年間指導を受けました。ここでは研究者同士が年齢や地位や国籍によらず自由に討論する「コペンハーゲン精神」で研究が進められていました。

 この時代、全ての物質が原子からできていることはすでに知られていたのですが、なぜ原子が安定しているのかがまだ分かっていませんでした。この謎を解いたのが量子力学という新しい物理学で、1925年にヨーロッパで完成しました。仁科博士は量子力学の誕生に立ち会ったただ一人の日本人です。量子力学は現代物理学の基礎であり、あの青色LEDも量子力学がなければ生まれていません。デンマーク滞在最後の年である1928年には現代でもX線天文学などで用いられる「クライン・仁科の公式」を導出しました。

 帰国後は、理化学研究所主任研究員として仁科研究室を主宰し、日本における新しい物理学研究の一大拠点となりました。京都大学にも出講して、いずれもノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士、朝永振一郎博士ら後進の指導に心血をそそぎました。仁科研究室は「コペンハーゲン精神」で運営され、朝永振一郎博士は「科学者の自由な楽園」と回想しています。1937年(昭和12年)に日本初の加速器(原子物理学の実験装置)サイクロトロンを完成させ、さらに1943年(昭和18年)には当時世界最大クラスの大サイクロトロンを建設しました。1945年(昭和20年)8月に広島に原子爆弾が投下されるや大本営の要請を受けて調査におもむき、原子爆弾と断定して、大戦終結の糸口をつくりました。1946年(昭和21年)11月戦後初めての文化勲章を受章しました。

 仁科博士の言葉「環境は人を創り 人は環境を創る」には仁科博士の研究人生が凝縮されています。