仁科芳雄博士の
略年譜

生家で過ごした幼少期

1890.12.06
岡山県浅口郡新庄村(現 里庄町)浜中に仁科存正(ありまさ)・津禰(つね)の第8子4男として出生(明治23年)
1897.04
新庄尋常小学校(現 里庄西小学校)入学

▲ 少年時代の習字

1901.03.28
新庄尋常小学校 卒業
1901.04
新庄高等小学校 入学

▲ 少年時代の絵 馬

▲ 少年時代の絵 朝顔

1904.03
新庄小学校の高等科が廃止され、浅口郡六条院村(現 浅口市鴨方町六条院)の生石(おんじ)高等小学校に転入
1905.03.31
生石高等小学校 首席で卒業
※卒業写真を仁科会館に展示

▲ 生石高等小学校卒業写真。仁科博士は2列目左端

岡山市での学生時代

1905.04
岡山中学校(現 岡山朝日高等学校)入学

▲ 岡山中学庭球部。仁科博士は右から2番目

1906.06
父・存正死去。享年71。
1910.03.28
岡山中学校 首席で卒業

▲ 中学5年生時の仁科博士

1910.04
弟・正道に10枚にわたる手紙を書く
※この手紙は小冊子「弟にあてた手紙」(里庄町教育委員会刊)として里庄中学校立志式で全生徒に配布

▲10枚中2枚目。予習と復習が肝要であると書かれている。

1910.09
第六高等学校(現 岡山大学)理科甲類 入学(成績優秀のため無試験で合格)

▲第六高等学校1年時。仁科博士は最後列右から5番目。

1911.09
肋膜炎のため1年間休学
1914.07.04
第六高等学校 首席で卒業

電気工学を専攻

1914.09
東京帝国大学工科大学電気工学科 入学
1915.06
病気のため期末試験が受けられず留年
初めは県人寮「精義塾」に入ったが、その後次兄・遠平の家から通学した。

▲ 仁科遠平宅にて。仁科博士は後方右端、遠平は前列右端。前列左端は遠平の妻の終子で、坂田昌一博士の祖母の妹にあたる。

1918.07.09
東京帝国大学工科大学電気工学科を工科大学首席で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。卒業論文題目:"Effects of Unbalanced Single-Phase Loads on Poly-Phase Machinery & Phase Balancing"
※卒業論文は東京大学工学史料キュレーションデータベースで公開されている

理化学研究所に入所

1918.07.10
理化学研究所の研究生となり、同時に東京帝国大学大学院に入学し物理学を学ぶ。

▲ 理化学研究所入所時の履歴書(理化学研究所 所蔵)

1920.08.01
理化学研究所研究員補に任ぜられ、ヨーロッパ留学を命じられる

ヨーロッパ留学期

1921.04.02
東京から船「北野丸」でヨーロッパに出発(5月下旬にロンドンに到着)

▲北野丸

1921.10.01
イギリス・ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に留学。アーネスト・ラザフォードのもとで研究生活(約1年間滞在)
1922.11.01
ドイツ・ゲッチンゲン大学に留学(約半年滞在)
1922.11.12
母・津禰(つね)10月死去という手紙が届く。
1923.03.25
ニールス・ボーアに留学を希望する手紙を出す(後に「日本の物理学を変えた手紙」とも呼ばれる)
※この手紙の精密な複製(2017年に理化学研究所が作成)を仁科会館に展示
1923.04.10
デンマーク・コペンハーゲン大学に留学。ニールス・ボーアのもとで研究生活に入る。(約5年半滞在、世界各国からの研究者達との共同研究と交流)
※仁科会館正面左手にあるハフニウム原子模型のモニュメントは、コスタ―とウェルナーとのエックス線吸収スペクトルに関する共同研究にちなむ

▲ コペンハーゲン大学ニールス・ボーア研究所

1927.11.10
ドイツ・ハンブルグ大学に留学(親友イシドール・ラビと共同研究)

クライン・仁科の公式

1928.09
オスカル・クラインと共に「クライン・仁科の公式」を導出

▲ 「クライン・仁科の公式」の計算ノート

1928.10.01
留学生活を終え、帰国の途へ。コペンハーゲンからロンドン、パリを経てアメリカへ。(10月30日ヨーロッパを離れる)
1928.11.12
アメリカに入り各地の研究者を訪問、12月5日サンフランシスコにて乗船

帰国

1928.12.21
帰国
1929.02.23
親友・名和武の妹美枝と結婚
1929.09
ハイゼンベルクとディラックを日本に招聘。後に2人による量子力学の講演要旨を日本語で出版し、各地の大学等に配布

▲ ハイゼンベルクとディラックを招聘(1929年理化学研究所にて)

1930.11.21
理学博士の学位を受ける。博士論文題目:「錫ヨリたんぐすてんニ至ル諸元素ノL吸収すぺくとる並ニ其ノ原子構造トノ関係ニ就イテ」
1931.05
京都大学に招かれ量子力学の集中講義。このとき聴講した湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一、小林稔ら、後の日本の物理学を牽引する。

理研主任研究員

1931.07.01
最年少で理化学研究所主任研究員となり、仁科研究室創設。朝永振一郎、仁科研究室へ

▲ ブドウ園で楽しむ仁科博士と朝永振一郎博士

1933.04.02
日本数学物理学会年会で仁科博士の示唆により湯川秀樹の中間子論完成へ

宇宙線の観測

1935.12
宇宙線強度の連続観測開始
1936.01
小サイクロトロン設計着手
1936.08
清水トンネルで最初の地下観測、宇宙線バーストをとらえる

▲ 清水トンネル内での宇宙線観測

小サイクロトロン

1937.04
小サイクロトロン完成。
核物理学、放射線生物学、人工放射性トレーサー利用の研究開始。

▲ 日本初の小サイクロトロン(1937年)

1937
大サイクロトロンの建設に着手。電磁石輸入など、ローレンスから支援を得る。

ニールス・ボーア来日

1937.04
ニールス・ボーアを日本に招聘。東大、東北大、京大、阪大、九州大での講演の通訳を務める。仁科夫妻、ボーアを自宅に招き、美枝夫人が琴を演奏してもてなす。

▲ 恩師ニールス・ボーアと通訳を務めた仁科博士

1937.08
宇宙線ミューオンの質量測定
1938.06.10
日本学術研究会議会員になる
1942.01
仁科研究室、スタッフ100名を擁する理化学研究所最大の研究室となる

大サイクロトロン

1943.02.11
大サイクロトロン組み立て終わり、調整に入る

▲ 大サイクロトロン組み立て完了記念の色紙

1944.01
大サイクロトロンで約16MeVの重陽子ビームを出す
1945.01.25
朝日賞受賞(元素の人工変換及び宇宙線の研究)
1945.04.13
東京空襲により、理化学研究所施設の大半を焼失。仁科博士の自宅・蔵書・家財も消失。
1945.08.08
広島に飛び新型爆弾の被害の状況を調査し、原子爆弾と断定
1945.11.24
米軍により、サイクロトロンが破壊され東京湾に投棄される。アメリカの科学者たちはこの暴挙に猛抗議し、米軍は誤りを認める。
1946.01
GHQ科学顧問ハリー・ケリー着任。仁科博士のよき理解者となり支援を得る。
1946.02.11
文化勲章受章

理研所長 科研社長

1946.11.11
第4代理化学研究所所長に就任
1948.03.01
GHQの指令により(財)理化学研究所は解散となるが、仁科博士の努力が実り「(株)科学研究所」(科研)として存続させることが認められ初代社長に就任。経営基盤整備のため、ペニシリン製造等に奔走。

▲ ペニシリンの培養

1948.05.01
日本ユネスコ協力会連盟初代委員長に選出される
1949.01.20
日本学術会議成立。第1回総会において副会長(自然科学部門代表)に選出される
1949.09.09
コペンハーゲンの国際学術会議へ出発(10月1日帰国)

▲ ユネスコ総会に出席する仁科博士(1949年9月20日パリ)

1949.11.03
湯川秀樹のノーベル賞受賞を喜ぶ

環境は人を創り
人は環境を創る

1949.11.17
「環境は人を創り 人は環境を創る」という書を、旧制津山中学で理科教員の求めに応じて書く
※この直筆の書は仁科会館正面右手に記念碑として設置
1950.04.10
仁科博士の尽力により、アメリカからアイソトープ輸入が始まる

▲ 初めて輸入された放射性アイソトープ

1950.08.05
郷里に展墓し、里庄公民館で講演(中学生・町民対象)
1950.11.29
体調を崩し病床にて「働きて働きて病む秋の暮れ」と詠む (口述記録)
1950.12.11
川島胃腸病院入院
1951.01.10
肝臓がんのため60才で逝去。科研葬が行われ、多磨霊園に眠る。(昭和26年)

仁科芳雄博士についてトップへ戻る

PAGE TOP