仁科芳雄博士 略歴

1890.12.06 岡山県浅口郡新庄村(現 里庄町)浜中に仁科存正・津禰の第8子4男として出生(明治23年)
1901.03.28 新庄尋常小学校(現 里庄西小学校)卒業
1905.03.21 生石高等小学校卒業
1910.03.28 岡山中学校(現 岡山朝日高等学校)卒業。4月、「弟にあてた手紙」(里庄町教育委員会刊)をしたためる。
1914.07.04 第六高等学校(現 岡山大学)理科甲類卒業
1918.07.09 東京帝国大学工科大学電気工学科を首席で卒業。 卒業論文題目:Effects of Unbalanced Single-Phase Loads on Poly-Phase Machinery & Phase Balancing
1918.07.10 理化学研究所に研究生となり、同時に東京帝国大学大学院に入学し物理学を学ぶ。
1921.08.01 研究員補に任ぜられ、理化学研究所留学生としてヨーロッパ留学へ出発
1921.10.01 英国・ケンブリッジ大学キャンベンディッシュ研究所に留学。E・ラザフォードのもとで研究生活(約1年間滞在)
1922.11.01 ドイツ・ゲッチンゲン大学に留学(約半年滞在)
1923.04.10 デンマーク・コペンハーゲン大学に留学。N・ボーアのもとで研究生活に入る。(約5年半滞在、世界各国からの研究者達との共同研究と交流)
1927.11.10 ドイツ・ハンブルグ大学に留学(親友ラービと共同研究)
1928.09.30 クラインと共に「クライン・仁科の公式」を導出
1928.10.01 留学生活を終え、帰国の途へ--コペンハーゲンからロンドン、パリを経てアメリカへ(10月30日ヨーロッパをはなれる)
1928.11.12 アメリカに入り各地の研究者を訪問、12月5日サンフランシスコにて乗船
1928.12.21 帰国
1929.02.23 親友名和武の妹美枝と結婚
1930.11.21 理学博士の学位を受ける
1931.05 京都大学に招かれ量子力学の集中講義。このとき聴講した湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一、小林稔ら、後の日本の物理学を牽引する。
1931.07.01 主任研究員となり、仁科研究室創設。朝永振一郎、仁科研究室へ。
1933.04.02 日本数学物理学会年回で仁科の示唆により湯川の中間子論完成へ。
1937.04 小サイクロトロン完成。核物理学・放射線生物学・トレーサ利用の研究開始。
1937.04 N・ボーア来日。東大、東北大、京大、阪大、九州大での講演の通訳を務める。
1938.06.10 日本学術研究会議会員となる
1943.02.11 大サイクロトロン完成、翌年1月約16MeVの重陽子ビームを出す
1945.01.25 朝日賞受賞(元素の人工変換及び宇宙線の研究)
1945.08.08 新型爆弾調査で広島に飛び、原爆と断定。大戦終結の糸口となる。
1945.11.24 GHQ(連合軍総指令部)の指令により、大、小サイクロトロン東京湾に投棄される
1946.02.11 文化勲章を受ける
1946.11.11 第4代理化学研究所所長に就任
1948.03.01 GHQの指令により(財)理化学研究所は解散となるが、仁科の努力により、研究部門の会社組織での存続が認められ(株)科学研究所(科研)発足、社長に就任
1948.05.01 日本ユネスコ協力会連盟初代会長に選出される
1949.01.20 日本学術会議成立。第1回総会において副会長(自然科学部門代表)に選出される
1949.09.09 コペンハーゲンの国際学術会議へ出発(10月1日帰国)
1950.08.05 郷里に展墓し、里庄公民館で講演(中学生・町民対象)
1951.01.10 肝臓癌のため60才で逝去。理研葬が行われ、多磨霊園に眠る。(昭和26年)

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